|
埼玉で見守る日本の成長・・・少年期 |

1961年3月 |

静岡県清水市に生まれる |
| 1971年 |
さいたま市立木崎小転入学
少年時代の趣味は定番の切手蒐集。「月に雁」や「見返り美人」が自慢だった。
7年間の相棒タローがフィラリアで死亡。深い悲しみと「生の意義」を感じた。 |
| 1973年 |
さいたま市立木崎中入学
パワフルいたずら小僧の時代。 |
| 1976年 |
県立浦和高校入学
硬式テニス部に3年間所属。基礎体力と根性をしっかりと養った。
大学浪人時代は三畳一間の下宿に移り、午前中は予備校、午後は大学の講義聴講という、マジメな生活を送る。 |
| 1980年 |
慶応大学法学部政治学科入学
初恋は大学3年生とかなり遅い。大学時代のバイト遍歴は、舞台設営の手伝い、テニス・コーチ、高速道路サービスエリアのレストラン・ウェイター、学習塾の生徒の『相談役』。
|
  |
| 政治に開眼・・・大学・松下政経塾時代 |
| 1984年 |
(財)松下政経塾入塾
松下幸之助氏の国を憂う姿に共鳴。 「運と愛嬌のある奴を選んだ」というのが幸之助氏による選考理由。
初の海外旅行はインド。この旅と一年間の中国研修によってアジアから世界を見据える視点が芽生えた。
[松下政経塾報バックナンバー]
94年11月 埼玉の将来展望を描く
94年5月 都市合併を決断するとき
94年3月 予算ご意見番
94年3月 女性視点
94年1月 日本新党へ
93年7月 埼玉県は「選挙広報」を発行せよ
93年3月 許認可と指導を中央からなくしたい
93年3月 FC後援会にも埼玉県の事情 |
| 1989年 |
結婚
松本で先輩の選挙を応援中に知り合った智子さんと遠距離恋愛の末、政経塾卒業後に結婚。 |
 |
|
| 県議当選前 |

1989年 |

浦和レッズ誘致へ
「浦和プロサッカー球団をつくろう会」を発起人代表として設立。山岡淳一郎氏の著書「レッズと浦和 純愛サッカー物語」に当時の様子が詳しくまとめられている。 |
 
|
| 1990年 |
長女誕生 バスケットに入れられた長女は、選挙事務所のあわただしい雰囲気の洗礼を受ける。 |
| 1991年 |
県議会議員選挙に出馬するも落選
落選の翌日から街頭に立つ。浪人時代は捨てられるビラを回収して配っていた。 |
| 1992年 |
長男誕生
この時期は3つの仕事を掛け持ちしていた。営業車で一日に300キロも走り回るうち、睡魔に襲われて電柱に大激突。車は廃車だったが、身体は無傷だった。自分の強運とシートベルトの大切さを再認識。
レッズと浦和との橋渡し役としてレッドダイヤモンズ後援会を1年9ヶ月かけて立ち上げる。 |
 |
| ■実践と成果・・・県議時代 |
| 1995年4月 |
埼玉県議会議員初当選
初当選の22名の県会議員により、平成7年当選にちなみ「七の会」を発足した。各定例会ごとの例会を開催してきた。
4年度目、環境生活委員会で所沢のダイオキシン問題に直面。東京から300万トンの建設廃材流入を止めろとか、
産業廃棄物処理業者を徹底的に取り締まれという意見に対しては、建設業界の建設廃材のリサイクル義務化や、優良産業廃棄物業者の育成という視点が必要なことを指摘。 |
| 1999年4月 |
二期目当選
議会改革では、一期目に選挙公報発行、前年度決算の9月議会提出(翌年度予算審議に反映するため)などを行った。
2期目に入ると県議会の委員会の答弁者が多すぎる(多い委員会は100名ほどの県職員)ので、委員会開会中に県民サービスに支障をきたすのではないかということから、 削減を求めたところ、下図の新聞記事のように実現できた。 |
| 2000年3月 |
街頭演説2000回を達成
演説の度に食べた「駅そば」が今は一番の好物。そば屋のおばさんともすっかり顔なじみに。
大宮アルディージャJ2参加の為、大宮サッカー場の改修に尽力。 |
| |
 |
  |